2016年 リポート


2016/12/16

第2回 「発掘!仏教埋蔵噺」

12月16日、桂文我師匠をお招きしまして「発掘!仏教埋蔵噺」を開催しました。そのときの様子を参加者の久米秀慶さんがFacebookでリポートしてくだいました。ご本人の許可を頂いてここに転載させていただきます。皆様もどうぞ講座のご感想などお寄せください。

 

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 第二回 発掘!仏教埋蔵噺 於 練心庵 桂文我師匠

 

比較宗教学的にも、貴重な根多『三年酒』

 

釈先生も生で聞きたいとリクエストされていた噺(ご当地ネタ池田が舞台の噺)

 

以前米朝師匠がされていて、現在は文我さんと桂宗助さんお二人ぐらいしかされていないという事で、全く知らない噺でしたので、埋没されず聞けてとても良かった。

 

桂米朝師匠も現役時「あっちやこっちでやれるといぅ噺でもございません。といぅのが、ケッタイな噺でして、坊さんボロクソに言ぃまんねやなぁ、この噺わ」と話されている。

 

少しだけ落語三年酒(さんねんしゅ)を紹介しますと

 

〈落語冒頭〉キリスト教の弾圧という事でそれで、人別というものが出来た。人別帳を預かる寺には逆らえない。神道講釈に凝っている又七(又はん)という男が酒を飲み過ぎため死んでしまった。本人の希望通りに神道で葬式を出そうとしたが、和尚が承知しない。

そこで和尚の説得に向かうのがオネオネの佐助・高慢の幸兵衛・コツキの源兵衛という三人組。(さてどうなりますやら。続きは落語会でお楽しみ下さい)

 

オネオネの佐助とは、おねおねおねおねと前置きの長い話をし、相手がしびれを切らせ説得しよう、高慢の幸兵衛とは、高慢上から目線で説得しよう、コツキの源兵衛とは、最後の手段こついて腕力で説得しようとする個性あるキャラクター

 

曽根駅が、帰りには「そね」から「おね」(笑)に思えるくらい愉快な登場人物。 

そんなおねおね話す人物は、落語界・大学の先生にもいますか?「(師匠と釈先生)いますね」(笑)

 

 

 

 

文我師匠と釈先生の対談にて

 

落語まくらの話されていた文我師匠幼少期の近所の教会の牧師さんハナゾノさんとのエピソード。子供向けの集会をされていた教会。綺麗なカードをもらうのがお目当て。とある日、近くの川へ洗礼を見学する日があり、見に行った。何も説明されず、牧師さんがいきなり「どぼんと」信者さんを仰向けに川に浸けられる。以降二度と行かなくなった。。(笑)

 

(釈先生より)

川の中で洗礼式をされた全身洗礼なので、バプテスト派ですね。パプテスト派は、洗礼せんれいといわず、しんれいという。

教会によっては大きな浴槽のようなものがあって全身で受ける形。

カトリックには幼児洗礼がある。カトリックは、生まれたら洗礼を受けるので、その地域の人はその教会に属す、日本の檀家制度に似ていますね。

 

プロテスタントは、信仰を持って受けるのが本物とし、成人してから、洗礼を受け、パレスチナ地方でやっていた川で受けるような全身を浸すスタイルを大切にする。

 

(文我師匠より)

米朝師匠の師匠四代目桂米團治は、洗礼を三回受けはった

米朝師匠が「なんで3回も受けはったんですかー」と尋ねられると

「気持ちええさかいねー」(笑)

受けさす方も、受けさす方ですね(笑)

 

(釈先生より)

神道と仏教の話題

神道も外来の神といえる。新モンゴロイド系北方系の

それまでは、土着の信仰が各所に点在していた。

仏教がやってきたことで各地域・各地域の信仰が体型化。

日本の場合は、双子の宗教といえる。

 

五木寛之さんより教えて頂いた事ですが、

一時、外来種で悪評高かったセイタカワダチソウが、

今では、小さくなって可憐かれんになっているという。

あまり背が高くない(笑)あわもあまりたたない(笑)

 

文我師匠「ただの草ソウですね(笑)」

変質するものが、土着し、土着しないものは、定着しない。

 

日本に順応し小型化したという話。

 

神道だから、火葬しなくて、助かったというのが話の根幹ポイントですが、

神道は土葬、仏教は火葬という事に噺の中ではなってますが、

 

そこから世界の土葬火葬について

 

両墓制 サンマイヒジリ 三昧聖 

 

文我師匠も三昧聖のようなそのような方おられました、思い出しましたと。

 

前回も、地蔵さまの話しも印象深いが、改めて文我師匠は小さい頃から宗教体験が、豊富な方だと驚く。またそんなエピソードを踏まえながら、仏教落語・宗教文化の落語を聞くのは至福でした。

 

対談休憩をはさみ、二席目お楽しみは、

季節感ある情景が浮かぶ『二番煎じ』

 

 

対談でも話が出ましたが、文我師匠と年齢が近く親しい関係の桂宗助師匠。その高座名は「二番煎じ」の登場人物「宗助」から。三年酒は、宗助さんが昔からやっていて文我師匠もされるように。

 

 

〈落語冒頭〉町内に一軒「番小屋」という小屋をしつらえまして、夜になりますと火の用心、火の回りということで、町内をこぉ回って火の用心をするわけでございます。

 

「火の元用心、火の用心、さっしゃりましょう」文我師匠の威勢のいい掛け声!

 

地域の一消防団員ですので、年末夜警に向けこちらも味わい深く聞かせて頂きました。次回3月も楽しみであります。

 

 

※追伸

 

糸魚川火災にて、たいへんな被害に遭われた被災された方々へお見舞い申し上げます。


(記:久米秀慶さん)


2016/10/25

10月期 初歩からの宗教学講座

10月25日、三木英先生をゲスト講師にお招きしまして「初歩からの宗教学講座」を開催しました。そのときの様子を参加者の大西龍心さんがFacebookでリポートしてくだいました。

ご本人の許可を頂いてここに転載させていただきます。

皆様もどうぞ講座のご感想などお寄せください。

 

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「生駒の山の 空高く 

   仰げ明星 理想の光 

 智徳のほまれ きそい 

   ただひたすらの 道をゆく」

 

今話題の真田丸のあった場所にある母校の校歌なのだが、生駒から遠く離れた上町大地に建つこの学校の校歌にも生駒山が出てくる。在学時代は何の疑問もなく歌っていたこの歌だが何故ここに生駒山が出てくるのか。もちろん遥かに見えるとは言え、よくよく考えてみれば少し不思議な事かもしれない。

 

練心庵「初歩からの宗教学講座」は宗教社会学者の三木英先生をゲストに迎えフィールドワークをふまえた宗教観とその変遷についてのお話を聞く。中でも今回は先生の調査された生駒山についてのお話が中心となり、生駒山が古来大都市に隣接した霊山であり多くの民族宗教の交錯する地である事、その力が最近衰えている事などのお話があった。

 

都会の人たちが何故生駒の民族宗教に惹かれるのか、それは都市世界を貫く合理主義や能率至上主義からのストレスやそれに伴う息苦しさから逃れる場として、生駒という自然環境と宗教性のある土地が選ばれたという事だが、では何故生駒が選ばれたのか。これは宗教社会学ではなく宗教学の範疇になるのかもしれないが、大阪という都市から見て生駒が四天王寺の西門から見える西方に対して朝日の登る再生の土地である事と関係するのであろうか。(これについては平城京の菅原寺で生涯を閉じた行基菩薩が遺言で「生馬(いこま)山の東陵」(奈良からみると西方)で火葬する事を願ったということもあわせて考えると面白いかもしれない)

 

生駒という霊山の話から霊山、聖地などに行くのは日常生活とは別のスイッチを入れる、「野生の思考」を取り戻すためという話に移り、お茶室は「都市の野生」を具現化した場所であるという話になる。ふと以前読んだイエズス教会の宣教師ジョアン・ロドリゲスの著した『日本教会史』の次の文を思い出す。

 

「数奇と呼ばれるこの新しい茶の湯の様式は有名で裕福な堺の都市に始まった・・・(中略)・・・たとえば場所が狭いためにやむを得ず当初のものよりは小さい形の小家を造るようになったが、それはこの都市がまったく爽やかさのない干涸びた海浜の一平原に位置しており、さらに言えば西側は荒い海岸に囲まれた砂原になっていて、周辺には泉や森の爽やかさもなく、また都の都市に見られるような数奇にふさわしい人里離れて懐旧の思いにふける場所もないからである。この都市にあるこれら狭い小家では、互いに茶に招待しあい、そうする事によってこの都市がその周辺に欠いていた爽やかな隠退の場の補いをしていた。むしろある点では、彼らはこの様式が純粋な隠退よりも勝ると考えていた。と言うのは都市そのものの中に隠退所を見出して楽しんでいたからであって、その事を彼らの言葉で「市中の山居」と言っていた。それは街辻の中に見出された隠退の閑居という意味である。」

 

まさにそういう点で聖地と茶室は繋がっており日常生活とは全く別の体と心の使い方をする場所であったのだろう。

 

 

1985年に刊行された『生駒の神々』と2012年に刊行された『生駒の神々』それぞれの調査から生駒において民間宗教者やその信者が減っている事に反比例して占いの店が増えてきているという報告も面白かった。これは現世至上主義が広まっている中でもパワースポット巡りやパワーストーンの流行など、これまでとは違う他界(異界)感が形成されていることを感じる。何となく感じるのは「コントロール可能な他界(異界)観」とでも言えばいいのかこちらから選んで行く事の出来るパワースポット、こちらから選んで(ご利益を)組み合わせる事の出来るパワーストーンと言う現象である。これは三木先生の指摘された「行場ではカメラに神霊が写ってしまう」という見方から「神霊を写せる」という見方に変わってきたという点とも共通するのかもしれない。

 

釈先生の指摘された「教団宗教者は教義を担保とし、民間宗教者は名人芸を担保とする」(担保という言葉は使われておられませんでしたがこのようなニュアンスかなと思って書きました)というご指摘は真言宗という祈祷系の宗教に属しているものとしても面白く感じた。真言宗の場合信者寺と檀家寺に大きく別れ(もちろんその中間の性格を持った寺院もある、というよりその両方の性格を持った寺院の方が多いのだが)信者寺のご住職にはこの名人芸系の人が多い。この民間宗教者の名人芸については新興宗教の問題も含めてまだまだ知りたい部分である。

 

とりとめのないまとめになってしまったが、次回講義に向けて疑問点をいくつか覚え書きとして書いておく

 

・宗教社会学、民俗学、文化人類学の守備範囲の違いはどこにあるのだろうか。

・民間宗教と民族宗教とのニュアンスの違い(三木先生は民族宗教と仰っておられたのに対し釈先生は民間宗教という言葉を使われていたように思う)

 

 

(記:大西龍心さん)

 

 

2016/09/28

第1回「発掘!仏教埋蔵噺」

9月28日、桂文我師匠をお招きしまして第一回「発掘!仏教埋蔵噺」を開催しました。そのときの様子を参加者の久米秀慶さんがFacebookでリポートしてくだいました。

ご本人の許可を頂いてここに転載させていただきます。

皆様もどうぞ講座のご感想などお寄せください。

 

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記念すべき第一回 発掘!仏教埋蔵噺

於 練心庵

 

桂文我師匠を招かれて

 

○仏教埋蔵噺~仏教系小噺いくつか

○その後落語二席

○最後に、釈先生と対談

 

 

二席の落語も、古い根多台本の中にある小噺から、ひとつの噺へ膨らませ構成、披露出来るものへ仕立て直された仏教落語。

埋蔵されている根多台本から、復活させるのは、文我師匠ならでは。

 

(枝雀独演会に弟子として全国各地同行されてた頃から、20年以上全国古本屋巡りに因る)

 

故桂米朝師は、芸人さんであって落語研究者という側面があり、その米朝師の研究家側面後を引き継ぐ人なく、それでは白羽の矢が立って文我さん文献研究を始める。

米朝師匠とのエピソードは、何度聞いても懐かしく嬉しい。

 

古い話しで、こんなのがあると、巡業先宿にて、紹介し出す米朝師匠。発掘好きだし、関心があるから、若手に伝える様子が、よく伝わる。

 

(大昔にあった街角の売声の形態模写もされてたな~おでん売りだったかな)

 

落語研究者・芸能研究者・民俗学者などの、研究者に対して、芸人側から見て、間違っているところ指摘出来る人が必要。芸人側からも文献研究する人が必要で、米朝師匠の後、誰もそんな能力がある噺家いないのが問題で、始めることに。

 

釈先生と文我師匠との対談。すべて書き起こしたいくらい勉強になったし、面白く聞かせて頂いた。

 

 

その対談にて、師匠質問「地蔵さんとは?」

 

大地の仏であり、大乗仏教中国で、道教と引っ付き、辻・境界を守る仏であり、特徴的な事は、衆生の苦しみを身代わりされる、身代わり地蔵もあると、解説される釈先生。

 

身代わりで、思い出した師匠が、小さな時、身代わり地蔵が近所にあり、歯痛を身代わり地蔵にお参りした。近所のお婆さんも、歯痛で、その地蔵さんにお参り、翌日そのお地蔵さんの頬にサロンパスが貼られていた。

地域でちょっとした騒動になったが、お参りしたお婆さんが貼ったものだったというエピソード。

 

この地蔵さんとお婆さんのエピソードが、素敵な話しでした。畏るべし松阪。宗教感覚・死生観豊かな地域ですね。

 

あとは、遅筆なため伝えきれません。

詳しくは、第二回埋蔵噺ご参加され体験下さい>_<

 

(記:久米秀慶さん)


2016/08/19

8月期「初歩からの宗教学講座」

 

 

8月19日に行われた「8月期初歩からの宗教学講座」のリポートです。

 

 

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「キリスト教を学ぶ(その2)」と題された今回の講座。前回のおさらいから始まりました。前回に参加していなかった方はもちろん、前回も参加していた方も、キリスト教の簡単な概要を短い時間で振り返ることができ、安心して講座を受けることができました。

 

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行為と信仰

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講座の冒頭で、釈先生はキリスト教について、こう説明してくださいました。

「2000年ほど前にイスラエルで活躍したイエスという人物を通して神の愛を知る道、それがキリスト教です。」

「イエスという人物を通して」とおっしゃったように、キリスト教が普及したのはイエスの存命時ではなく、その昇天後でした。イエス自身はユダヤ民族に生まれ、ユダヤ教の新しい一派を作ったつもりだっただろうとのことです。

ユダヤ教という宗教は、行為を非常に重視します。日常において細かい決まり事があり、食べていいものいけないものや、安息日など、はっきり決められています。

一方のキリスト教は、戒律より内面の信仰を重んじます。「よこしまな目で他人の奥さんを見る」だけでもダメなのがキリスト教です。行為重視と内面重視。どちらを重視するかは、それぞれの宗教の性格の違いによります。

キリスト教には、「伝道こそ信仰のあかし」という思想があります。ユダヤ教徒として生まれ、ユダヤ教徒として死んでいったイエスの教えが広まったのは、ひとえに弟子たちの伝道のおかげです。イエスのことを厳しく批判していたパウロも、後にはクリスチャンになり、各地を伝道します。パウロはユダヤ人以外にも伝道を始め、その意味では、キリスト教はパウロから生まれたとも言えます。パウロは人々に、ユダヤ教の決まりは守らなくていい、大事なのは神だと伝道しました。こうして、信仰こそ正しいと認められる信仰義認や、律法からの解放が各地に広まっていったのです。

 

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宗教的逆説性

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「貧しいものこそ幸せである」という「平地の説教」の一節には、「悪人こそが救われる」という『歎異抄』の悪人正機と同じような宗教的逆説性が感じ取れます。

世俗をひっくり返す魅力をもった宗教は、宗教的逆説性を持ちます。この世俗と同じものを提示しては宗教の価値はありません。世間とは別の価値観だからこそ、社会では救われない人間が宗教で救われるのですから。ただ、だからこそ宗教は危ないとも言えます。社会とバッティングを起こすこともしばしばです。

迫害をうけている者よ、あなたこそが正しい道を歩いている、というキリスト教の理論は、「苦難の神義論」と呼ばれます。これと対極にあるのが「幸福の神義論」です。「おかげさま」に代表される思想です。

苦難の神義論を構築したキリスト教徒たちは、どんなジャングルの奥地でも踏み入って、伝道を続けました。迫害されて惨殺されても、いえ、むしろ、迫害されればされるほど、自分のしていることは正しいという神義論を突き詰められたのです。

 

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遠藤周作の『沈黙』

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日本人作家でクリスチャンである遠藤周作の代表作に、『沈黙』があります。スコセッシ監督による映画化も決定し、2017年に「沈黙-サイレンス-」の邦題で公開されるそうです。キリシタンの迫害の物語であるこの作品は、日本の宗教観とキリスト教のはざまで苦しんだ遠藤の叫びが込められている気がします。

島原の乱以後の長崎で、ポルトガル人司祭ロドリゴは、井上筑後守に棄教を迫られます。死ぬのも怖くないという決意で、伝道のため日本に来たロドリゴですが、数々の苦難を受ける中でひとつだけ疑問を持ちます。こんなに信仰篤い人々が苦しんでいるのに、神はなぜ沈黙しているのだろうか、という疑問です。先に棄教したフェレイラ司祭はロドリゴに、「この国は沼地だ」と言います。どんな木を植えても根は腐っていく。どんな木を植えてもダメなんだ、と。仲間の拷問に悩んだロドリゴは、ついに踏み絵を踏む決心をします。それでもなお沈黙する神に対し、ロドリゴは死を決意します。しかし、そこで初めて、ロドリゴに神の声が聞こえるのです。「踏め」と。「お前に踏まれるために私はいるのだ」と。

この作品によって、遠藤はかなり批判されたそうです。そんなのはキリスト教の神ではない、お前の神は浄土真宗か、と。

共に泣く神、父なる神でなく母なる神を描いた遠藤ですが、キリスト教の母性はキリスト教の中に内蔵されていると釈先生はおっしゃいました。宗教には様々な要素があり、その地域に合ったところが発達するのだと。

 

資本主義、民主主義の二本柱はキリスト教文化圏から生まれました。わたしたちが普段抱いている、宗教=信仰というイメージも、キリスト教の影響からです。現代社会はキリスト教の知識なしに語れない苦悩もわからないと言えるでしょう。これからも機会あるごとにキリスト教の話をする、と講義は締めくくられました。キリスト教を通して、信仰というものを深く考えた90分でした。

 

(記:多谷ピノ)

 

2016/08/23

第3回「初歩からの仏教ワークショップ 四威儀の禅」

8月23日、花園大学の吉田叡禮先生を講師にお招きしまして第3回「初歩からの仏教ワークショップ 四威儀の禅」を行いました。

そのときの様子を参加者の藤岡延樹さんがFacebookでリポートしてくだいました。

ご本人の許可を頂いてここに転載させていただきます。

皆様もどうぞ講座のご感想などお寄せください。

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練心庵での吉田叡禮師による『四威儀の禅』講座の最終回。何とか間に合いました。

練心庵のピノさんに「レポートよろしく」と振られるも、大西龍心阿闍梨のようには書けるはずもなく、困る^_^;

今回は、坐禅と仰臥禅を。とにかく吉田先生の話が面白い。1分に1度は笑いが入ります(笑)楽しく親しみやすい坐禅ワークショップでした。

以下メモ

「観」

感覚に意識を持っていく

感情や思考は良くない

「止」

集中して対象と一つになる

主客を超える

数息観

随息観

流水観

玉簾観

「足や手を組む時、どちらを上にするか問題」「それはどのような理由か」など。

 

今回も釈徹宗先生は法務のためいらっしゃらず、代打に我らがあきらっちこと井上陽先生の登場。スキンヘッドにちょび髭、白のパンツに黒のシャツという出で立ち。う〜ん伊達男め!

 

仏教研究者になる前は料理人を目指していたとの過去を暴露。その時の包丁を研ぐ体験から、今回の禅における調身、調息、調心を解説。

これを受けて吉田先生からも武道やダンスにおける姿勢の話が引き出された。これによってグッと禅の言うところのものが、一般的な生活や、日常の暮らしの中にあることが共有された。

 

「禅は一宗一派のものではない」という話から、「念仏」や「マントラ」その三昧的な側面を話され、本日の講座はお時間となりした。

いつも思うんですが、練心庵はほんとお得です。いろんな意味で。

今回もありがとうございました!

 

次回は釈徹宗先生と宗教社会学者の三木英先生の対談か?三木先生にも聴講でお世話になりました。どんな話が飛び出すのかなぁ♪

 

(記:藤岡延樹さん)

 

 


2016/07/14

7月期 初歩からの宗教学講座

7月14日に行われた「7月期初歩からの宗教学講座」のリポートです。

 

(記:多谷ピノ)

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今回の「初歩からの宗教学講座」、テーマは「キリスト教を学ぶ」でした。

日本のクリスチャンの人口は、100万人。人口の約1%です。クリスチャンでなければ結婚式のチャペルくらいでしか関係ないと思われがちなキリスト教ですが、「キリスト教を知らないと現代社会の落とし穴、苦悩が見えない」と釈先生は冒頭でいきなりおっしゃいました。

日本に土着していないと思われがちなキリスト教、実は、現代日本に浸透している教育や倫理観はキリスト教の影響を受けているのだそうです。また、民主主義や資本主義という枠組みは、キリスト教文化圏が鍛錬してきたものであり、キリスト教への理解なくては我々の社会はわからないとのことに、深く感じ入りました。

 

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主の祈りと使徒信条

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まずはキリスト教を信仰する上で欠かせない、「主の祈り」と「使徒信条」の解説から始まりました。「主の祈り」は、イエスが「このように祈りなさい」と言ったと聖書に書かれているもので、クリスチャンの祈りのベースとなるものです。

「アーメン」の説明を受けつつ、この「天におられるわたしたちの父よ」で始まる主の祈りを読み解いていきます。ここでのポイントは「わたしたちの罪をお許し下さい」と父なる神に許しを請いながら、「私たちも許します」と記されていること。神様に許されると同時にわたしたちも許す、というスタンスが、キリスト教の構造です。

そして「使徒信条」。

4世紀に完成した使徒信条は、異端とのせめぎあいの中で完成しました。クリスチャンは受洗のとき、この「使徒信条」に書かれていることをすべて信じているかどうかを確認されます。そこには、父なる神を信じているかどうか、イエス・キリストを信じているかどうか、など、クリスチャンが「信じるもの」について羅列されています。特に、イエス・キリストが死んでから三日後に蘇ったことを信じるかどうかが、クリスチャンにとって大事なポイントになります。

 

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キリスト教の二軸構造

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イエス・キリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネ。元々はユダヤ教の神官の家系だったようです。しかし、そこを飛び出し、出家者のような生活をし、「神の国は近づいた」と人々に説いて回っていたそうで、ユダヤ教の中ではマイノリティだったとのことでした。イエスも洗礼者ヨハネと同じく、当時のユダヤ教の中のひとつである、エッセネ派という修行僧のようなグループに属していたそうです。

 

キリスト教には「原罪」という独特の価値観があります。誰もが罪を背負った存在であるという罪の文化が、キリスト教文化圏を支えています。そして、その全人類が背負っている罪を償うために、イエス・キリストは十字架にかかったというわけです。イエスへの信仰を通して、人々は罪を償うルートが用意されました。それは他者への許しを生むのです。このことが人類へもたらした貢献は計り知れないと釈先生はおっしゃいました。

私は神に許されているのだから、私も隣の人を許すという、二軸構造がキリスト教にとって大事なポイントになります。他者を許すことによってのみ、神の愛が成り立ちます。どちらか欠けても成り立ちません。

 

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Religion (レリジョン)の意味

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明治期に「宗教」と翻訳された「レリジョン」という言葉は、元々は「もう一度関係を結びなおす」という意味だったそうです。そこからわかるように、キリスト教文化圏では宗教を、本来はダメになった神との関係を結びなおすことだと捉えるようです。

日本が考える「宗教」と「レリジョン」を同じように考えるとズレが乗じるのではないかとあらためて実感しました。そして、「キリスト教の理解なしに近代社会は成り立たない」とおっしゃった先生の冒頭の言葉も思い返しました。

 

講義はさらに続き、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』などキリスト教をモチーフにした絵画をスライドで見せていただくなど、多方面からキリスト教を解説していただきました。今回も盛りだくさんの内容で書ききれません!次回も引き続き、キリスト教について行われる予定だそうですので、どうぞお楽しみに!

 

 

 

2016/05/20

練心庵伝統芸能シリーズ

~練心庵落語会春席~

5月20日、皆様に伝統芸能をご紹介する、練心庵伝統芸能部の第一弾として、練心庵落語会春席が開催されたときのリポートです。 お馴染みの桂優々さんの落語に加え、落語作家のくまざわあかねさんと練心庵主宰釈徹宗の対談も行われました。

 

(記:納谷久美子)

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インターネットとパソコンとスマートフォンの普及により、誰もが簡単に最新ニュースを手に入れられるようになった現代においても、面白い話を誰よりも早く入手し、「なあ、これ知ってるか。知らんやろ。教えたるわ。」と話して回る情報通がいますねえ。古典落語の時代にも、そんな情報通がいたようです。

 

今回の落語「あみだ池」には、そんな情報通が登場します。

 

 

 

 

「ほら、知らんかったやろ?せやから新聞を読めと言うとんねん!」

 

おお、学校の先生のよう。

(もっとも、当時の新聞ですから、おもしろおかしく書いた記事も多かったでしょうが。)

 

 

困ったことに、この情報通の人、ニュースの中にホラも混ぜて、相手が驚くのを楽しんでいるようです。騙されてくやしい主人公、同じホラ話を他の人にも聞かせて驚かせようとするのですが・・・

 

 

久々の落語会。

落語は桂優々さん、ゲストは落語作家のくまざわあかねさんでした。

え、「落語作家」?!

聞きなれない肩書きですよねえ。

落語は、昔からある「古典落語」だけでなく、現代になってから作られたものもたくさんあるのです。

 

専業の落語作家は、くまざわあかねさんと小佐田定雄さんのお2人だけなんだそうです。(くまざわあかねさんは小佐田定雄さんのお弟子さんでもあり奥さんでもあります。)

 

くまざわさんがおっしゃるには「落語作家は免許制ではありませんから、名乗ろうと思えば名乗れます。」とのことです。釈先生は「題名とあらすじとオチだけ残っている古典落語」の中身を創作したことがあるそうで、「ほな、名刺に落語作家て書こうかなあ~」などとおっしゃってました。おお!ええやないですか。

 

 

さて、その「古典落語」の舞台ですが、江戸時代だけとは限りません。明治・大正時代のものもあります。

 

聞いていて、

「おや?江戸じゃなくて東京って言うてるでえ?」

「ん?汽車?郵便局?」

などと思ったことはありませんか?

「古典落語」とは昭和10年ごろまでが舞台のものを言うそうです。

 

くまざわあかねさんは、落語の時代の生活を1か月間やってみたことがあるという、なんとも興味深い方です。あまり古すぎては資料がなくて困るので、江戸時代の生活ではなく、実際に当時を知る人に聞ける「昭和10年ごろ」の生活を再現してみたそうです。また、江戸時代の生活をするには、髪も結わないといけないなど、現代人にはあまりにも困難です。

 

 

 

家の中で電気製品を使わないだけではありません。外に出ても、「銀行はあるけどATMは無かったから、窓口でお金をおろす」「御堂筋線は開通してたから乗ってもよい」など、徹底して「昭和10年ごろ」の生活を体験。「あとで調べたら、当時もうエスカレーターがあったんですよ。つこたらよかったわあ」などとおっしゃっていました。階段しか使わなかったんですね。

  

 

その生活の様子を書いた本も出版されているので、興味をお持ちになった方は探してみてくださいね。


2016/06/22

第2回「初歩からの仏教ワークショップ 四威儀の禅」

 

6月22日、花園大学の吉田叡禮先生を講師にお招きしまして第2回「初歩からの仏教ワークショップ 四威儀の禅」を行いました。

そのときの様子を参加者の大西龍心さんがFacebookでリポートしてくだいました。

ご本人の許可を頂いてここに転載させていただきます。

皆様もどうぞ講座のご感想などお寄せください。

 

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本日の練心庵は『初歩からの仏教ワークショップ 四威儀の禅』の第2回目。

 

今回も前回同様に花園大学の吉田 叡禮先生をお迎えして、四威儀の禅ワークのうち「立禅」を中心に学ばせていただいた。

 

まず白隠禅師の「動中の工夫、静中に勝ること百千億倍す」という言葉を取り上げられたが、今回のワークの眼目はこの「工夫」の文字にあったのではないか。

 

坐禅というスタイルが止観(≒瞑想)に向いていることは『天台小止観』に「坐中において止観を修すとは、四威儀のなかにおいてすなわち道を学ぶことを得れども、坐を最勝となすが故に、まず坐に約してもって止観を明かさん」(坐禅のなかにおいて止観を修習するとは、行住坐臥の日常生活のなかで仏道を実践するのであるが、坐禅のなかで止観を実践するのが最もすぐれているので、まず坐禅中の止観法を説くことにする)とあるように明白なのではあろうが、日常生活の中でそうそう坐ってばかりもいられない。

 

 

 

 

まさに行住坐臥全てに「工夫」をすることは身体感覚を取り戻すことであり、今流行のマインドフルネスと相通じるものがあるような気がした。そういった流れの中で「軟蘇の法」を実践し、煉炁(れんき)、行炁(ぎょうき)を味わう。

(※このあたり詳しくは直接吉田先生にお聞きください)

 

お話の中で出た「行は(できるかできないかを)心配することではなく、やってみること」という言葉が印象的だったが「仏教」、「仏道」、「仏行」その関係性の一端を垣間みたような気がした。

 

 

次回も非常に楽しみである。

 

(記:大西龍心さん)

 

2016/06/11

第1回【寺子屋数学ゼミ-岡潔の世界-】

 

6月11日、森田真生先生を講師にお招きしまして、第1回「寺子屋数学ゼミ」を行いました。

そのときの様子を参加者の大西龍心さんがFacebookでリポートしてくだいました。

ご本人の許可を頂いてここに転載させていただきます。

皆様もどうぞ講座のご感想などお寄せください。

 

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今日の練心庵は森田真生氏による【寺子屋数学ゼミ-岡潔の世界-】

 

テーマは「exploring the mechanism of "I-ing" from within & without」ということで、岡潔氏の数学的探求を座標軸に人間とは何か人間の心とはという問題を考えていこうというまさにゼミ形式の講義。

 

数学ゼミと銘打ってはいるが、問題とされるのは" I-ing "という言葉に象徴されるように、私という存在は実態でなくプロセス、行為であり、dancingという行為の連続がdanceを創るように”I-ing"が"I"を創るというどこか「心相続」を想起させられる視点も提示される。

 

またwithout、いわば客観性の限界とwithinいわば主観性の危険に注意しつつそれをカップリングするという点も非常に興味深い。

もちろん数学的な話も随所に出てきておりガウスの独自の感覚と複素数の発見(?)の話など虚数である” i ”が何か実体化して現れてきたような気がしたし、コーシーの積分定理は初めて聞いたけれど数学の演奏会を聞いているような美しい展開だった。

 

そしてその数学的な話の中からlocalとglobalへと展開していきそれぞれが情緒と情に繋がっていく。この話を聞いた時にふと感じたのはいわゆる仏教的な「悟り」と言うものは語り得ることの出来ないglobalなもので、その「悟り」を個々に体験したlocalな経験のみが語り得るものであるのではないかということ。これはこのゼミを通してゆっくり考えていきたい。

 

その他、"I-ing"と"I making"のちがいなどは今後考えていきたい点であるし、autopoiesis(自己創出)とDukkha(苦)の問題なども引き続き聞いてみたい。

 

なんだかまだ全然まとまらないが、次回までの課題をゆっくり見つめていこうと思う。

 

(記:大西龍心さん)


2016/05/09

仏道と武道~信じると演じる~

 

5月9日、練心庵に甲野善紀先生をお招きして、対談を行いました。そのときの様子を参加者の大西龍心さんがFacebookでリポートしてくだいました。ご本人の許可を頂いてここに転載させていただきます。
皆様もどうぞ講座のご感想などお寄せください。
 
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昨日の練心庵は甲野善紀先生と釈徹宗師による対談第二弾!「仏道と武道〜信じると演じる」しかもスペシャルゲストは、元ラグビー全日本選手の平尾剛さんという豪華な顔ぶれ。
会の始めに人身御供となって甲野先生の技を受けさせていただいたが、いつもながら気配のなさと技の重さを感じる。傍目には不意打ちにも見えるのかもしれないが、実際に受けてみると不意打ちというような感じではなくまさに気配のないところから突然重さが襲ってくる感じがする。しかも受けてからしばらく腕にその重さが残る。
甲野先生の喩えは「崖」であったり「ブラックホール」であったり「交通事故」であったりと、どれも奇異な感じがするのだが、それがイメージではなく感覚であるという話は非常に面白い。仏教の中でも瞑想がありそこにイメージを重ねる方法もあるのだが実はそれはイメージに留まるのではなく実感になって始めて意味を持つ。
これは言葉を持った人間であるが故の言葉と感覚の乖離を自覚的に観察する重要性であり、今回のテーマである「信じると演じる」にも深く関わってくる問題である。
その後、自分の成功体験やその時の感覚を持ち続けてはいけないという話しから「筏の喩え」に到り「四無量心」の「捨無量心」へと話は進んだ。
今回仏教と武道、特に浄土真宗についての話にはいたらなかったのだが、第三弾を楽しみしています。
※筏の喩え
 橋も船もない大河を渡らなければならない時に筏を組んで渡ったとする。無事に渡りきった時にはその筏を後生大事に持ち続けていくのではなく、その筏を捨てていかなければならない。(仏の)教えもそのようなものであるという話。
※四無量心
 慈無量心「慈しみ」相手の幸福を望む心。
 悲無量心「憐れみ」苦しみを除いてあげたいと思う心。
 喜無量心「喜び」相手の幸福を共に喜ぶ心。
 捨無量心「平静」相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心
 
(記:大西龍心さん)

2016/06/03

6月期「初歩からの宗教学講座」

6月3日、「初歩からの宗教学講座」を行いました。

そのときの様子を参加者の徂徠千代子さんがFacebookでリポートしてくだいました。

ご本人の許可を頂いてここに転載させていただきます。

皆様もどうぞ講座のご感想などお寄せください。

 

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今日の練心庵宗教学講座~オカルトについて考える。

釈先生の言いたいこと、すごくよくわかった。

 

浄土真宗という、合理的な環境で育ったせいで、超常現象とかマジックとか占いとか……そういう、不合理なものには否定的な立場をとるにもかかわらず、《嘘も方便》それで日常の苦悩が取り払われるならば……一概に上から目線で、全否定はできない。

 

民間宗教と教団宗教の、それぞれにある落とし穴。

に、落ちることなく、いいところを取り入れれば……という実に合理的な考え方です。

 

釈先生、スプーン曲げの実演までしてくださいました。

自動車事故がたて続けに起こった檀家さんが、嘆願してきたのに、釈先生のおじさん、「おたく、運転が下手なんとちゃいます?」には、笑えた。

うちの旦那の家庭も、言いそう。

うちの実家やと、すぐお祓いに行きそう。

そんなとこで、バランスとって生きてます。

 

そして映画《西の魔女が死んだ》、見たい!

傷ついた孫娘を救済するべくつく嘘:自分は魔女の末裔。

なんて素敵なんだ~。これこそ、目指すべきおばあちゃん。

子供をだまくらかすために壮大な嘘をつきつづける母親の漫画もあったな~。なんやったっけ?

 

月一のこの講座、いろんな気づきを与えてくださいます。

次広島を訪れる時は、静かに歩きます。

 

(記:徂徠千代子さん)


2016/04/20

第1回「初歩からの仏教ワークショップ」

四威儀の禅

 

4月20日、練心庵に花園大学の吉田叡禮先生をお招きして、四威儀の禅のワークショップを行いました。そのときの様子を参加者の藤岡延樹さんがFacebookでリポートしてくだいました。藤岡さんの許可を頂いてここに転載させていただきます。
皆様もどうぞ講座のご感想などお寄せください。
 
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釈先生の練心庵で、吉田叡禮師による「四威儀の禅」ワークショップ。わかりやすくユーモアたっぷりで楽しい時間でした。
四威儀とは、行住坐臥の四つに対応した禅の在り方。
本日は行(歩く)禅。次回は住(立つ)と坐(坐る)の予定。
ちなみに、念仏門も行住坐臥の念仏を勧めます。
浄土宗の開祖法然上人は、43歳のとき、善導大師〈善導大師(613~681)中国・唐代の浄土教の大成者〉が著した『観経疏』の「一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」という一文を見て、お念仏こそすべての人々が救われる教えであることに間違いはない、との確信を得、浄土宗を開かれました。法然上人は、「偏に善導大師に依る」と言っています。(当時比叡山で智慧第一の法然坊と言われたお方が仰っておられるのもポイントです)
坐禅ができない、向いてない、苦手という方は、行住座臥のお念仏をぞうぞ(^人^)
「すべての人」というところがポイントです。
ちなみに、僕がワークショップで坐禅や瞑想する時も、都度都度にお念仏入れてもらおうと思います。それが「アンカー(NLPの用語)」となるし、すでに種として因も果もそのまま頂けるからです。なも。
真言密教の方ともこの辺のお話したいです。またよろしくお願いします♪
(記:藤岡延樹さん)

2016/04/28

4月期 初歩からの宗教学講座

 

4月28日に行われた「初歩からの宗教学講座」のリポートです。

                            記:多谷ピノ

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2016年4月期の「初歩からの宗教学講座」は、ヒンドゥー教の続きから始まりました。
ヒンドゥー教に区切りをつけたそのあとは、『大般涅槃経』や『日本往生極楽記』や山田風太郎氏の『臨終図鑑』や五木寛之氏の『羨ましい死に方』などをひも解き、日本の「臨終の物語を読む」という講義が行われました。とても豪華なラインナップでした!
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ヒンドゥー教
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世界で三番目に多い宗教人口を持つヒンドゥー教は、ヴェーダ聖典を基盤とし、輪廻や解脱という世界観を持っています。
インドという土地柄もあるのでしょうか、猥雑とも言えるエネルギーの強さをヒンドゥー教からはびしばしと感じました。
そんなヒンドゥーの教えのひとつに「スヴァダルマ」があります。「本務」と訳されるこれは、「それぞれ果たすべき努めがある」という考えです。「灰皿には灰皿の本務があり、椅子には椅子の本務がある」。灰皿の役目なんて今まで考えたこともなかったのに、すごく説得力がありました。
「スヴァダルマ」は、あらゆるものが神であり、神と一体になる汎神論につながります。それは哲学へと発展し、「アドヴィタ」「不二一元論」とも言われます。日本語では「梵我一如」という言い方の方がおなじみかもしれません。
「梵我一如」、ブラフマンとアートマンは本来ひとつなのに、私たちはそれらが別々であるような錯覚に陥っている。
だから、「本来はひとつ」という体験をすれば輪廻から解脱できる。そんな理論を中世にシャンカラが構築しました。これは後のヒンドゥー教に多大な影響を与えます。
本来の自分に目覚めることによって神と一体と気づく。
この部分は日本の天台本覚思想と通じるものがあると言われ、なぜかハッとしました。 
近代になって、ラーマクリシュナがシャンカラのアドヴィダの流れを汲み、悟りを開いたそうです。「全ての宗教は同じ神へのことなった道」という言葉を残しています。宗教多元論です。
「すべての川は海へと注ぐ」という、遠藤周作氏の『深い河』のテーマとなった言葉もラーマクリシュナのものでした。
猥雑なほど強いエネルギーを持つヒンドゥー教だからこそ生まれた言葉のような気がします。
ヒンドゥー教のエネルギー軸がとても強いことを実感しました。
講義ではヒンドゥー教はここまでで、次回からは次の宗教をするそうです。それも楽しみです!
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臨終の物語を読む
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さて、ヒンドゥー教のあとは「臨終の物語を読む」という講義が始まりました。
まずは、仏教の祖、ブッダの臨終の様子からです。『大般涅槃経』に描かれているブッダの苦痛の様子が生々しいです。
こういうものが2500年以上残っている面白さと、「ブッダは自らの臨終をクリエイトした」という釈先生の言葉が印象的でした。
「死の情報をたくさん集めても救われない」
「物語はそれに沿って歩まないと救われない」
そんな釈先生の教えに従い、「情報」ではなく「物語」を求めて、しばし、平安時代中期からの臨終の事例集を講読しました。
死を超えて続く物語こそ、宗教の本領だと釈先生はおっしゃいました。事例を読むことで、死を手元に引き寄せるのだと。
『日本往生極楽記』には、死ぬときは自分の体を獣に与えてくれと言った教信という人物が描かれています。教信の死は当時の、世俗から離れて修行していた高僧・勝如の構築していた世界を揺るがしました。辛い修行をしていた勝如は、「教信の一回の念仏にかなわない」と世俗から離れた修行を取りやめて、世俗での念仏に生きます。
また、「花が咲いているときに死にたい」と言っていた老婦人がまさに花の時期に病気になって喜ぶ話も読みます。これで往生できるのだと老婦人は心から喜び、それに応えるかのように池の蓮花が西を向いていたと締めくくられる物語が『日本往生極楽記』の最終話でした。
そこに描かれる死は悲しみではなく祝福でした。「死に向かう本人」にとっての喜びと、それを理解して喜ぶ周囲の姿に、日本仏教の肌感覚の物語を垣間見た気がしました。
前述の教信に憧れた勝如は、次の年教信と同じ日に息を引き取ったそうです。おそらく、臨終の間際、勝如は満足していたのではないでしょうか。少なくとも私にはそんなふうに思い描けました。
教信にも勝如にも会ったことないのに。
でも、それは当然かもしれません。
勝如の物語を読むことで、私もまた勝如の物語の一部になっているのです。
「物語」に巻き込まれると、見えてくる世界があります。
死に方を考えると生き方も変わってくる、と先生はおっしゃいました。
そして、もしかしてそれは「本来の自分に目覚めることによって神と一体と気づく」ヒンドゥーにもつながるのかと思ったりして、「私」という小さな物語と、それ以外の大きな物語のことを考えました。
 

2016/02/19

2月期 初歩からの宗教学講座

 

「2月期 初歩からの宗教学講座」を受講してくださいました葉狩隆太郎さんが、ご自身のfacebookにて、リポートを書いてくださいました。ご本人の許可をいただき、ここに転載させていただきます。

皆様もどうぞ講座のご感想などお寄せください。

 

 

 

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昨日は尊敬する浄土真宗本願寺派の僧侶であり相愛大学の教授であられる釈徹宗先生の私塾「練心庵」にて行われた 『初歩からの宗教学講座』を受講させて頂いてきました。

 

3年くらい前に釈先生の著作『仏教ではこう考える』に出会って、以来、先生の著作を通じて仏教に触れさせて頂き、ずっと直接のお話を聞きたいと思ってましたが、ようやくようやくご縁が整いまして昨日お伺いするコトができました!

 

阪急電車・曽根駅からすぐ近くにある「練心庵」には迷わず到着!

中にお邪魔すると釈先生も気付いてくださり、ご挨拶もできました。

感激の瞬間でありました!!

決して広いとはいえない会場にはギッシリの人!

そして講座開始の勤行、集まった皆さまの熱心な御念仏と読経が心に響きました。

真摯に仏法を求めるとはこういう姿勢なのだなと胸が熱くなりました。

 

講座は『維摩経』から仏教思想を学ぶ内容でした。

先生の著作『なりきる すてる ととのえる』からも『維摩経』に触れさせて頂いていましたが、より深くテーマである「空」「空の実践」について学ばせて頂きました。

 

 

「ひととおり学んできたものを点検してみる。外してみる」

「枠組みを揺さぶる」

「迷いの世界の中にこそ仏道がある」

「これからの成熟期の社会には、フェアとシェアの場を自分で作っていく、そこに豊かな宗教性をもたせていく、といった、縁起の実践・空の実践が大切」

 

 

というようなコトをおっしゃっていたのが特に心に残りました(少しニュアンスが違うかもしれませんが・・・)。

 

あっという間の1時間半。

 

すっかり引き込まれて、もっと聞きたい学びたいという欲求でイッパイになっている自分がいました。

 

 

講座後には厚かましくも先生にサインまで頂き、おこがましくも自分のCDもお渡しさせて頂いちゃいました(笑)。

 

この年齢になって尊敬できる憧れの存在ができるコトがまず嬉しいし、さらに実際にお会いできたコトも本当にありがたく思います。

まさに仏様からのおはたらきでありましょう。

 

昨日の講座を思い返しながら、この仏縁をありがたく喜んでおります!!

「聞思して遅慮する莫れ」

求道心をもって歩んでいかねばなりません!!

南無阿弥陀仏

 

 

(記:葉狩隆太郎さん)

 

2016/01/22 

1月期 初歩からの宗教学講座

1月22日に行われた「初歩からの宗教学講座」のリポートです。

 

記:一ノ瀬かおる

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 2016年最初の「初歩からの宗教学講座」では、『観無量寿経』を学びました。

 

『観無量寿経』とは「王舎城の悲劇」をベースとした経典。「王舎城の悲劇」とは、マガダ国の王族を巡る物語です。マガダの王ビンビサーラ(頻婆娑羅)と妃のヴァイデーヒー(韋提希)の間には子どもがおらず、二人は「三年後にある仙人が死に、その生まれ変わりが自分たちの子どもとなる」という占いの言葉にすがります。しかし頻婆娑羅王は、その時を待ちきれず仙人を殺してしまいます。仙人は復讐の言葉を残して死んでいきました。その後、息子アジャータシャトル(阿闍世)が生まれますが、頻婆娑羅王は仙人の復讐の言葉が頭を離れず、自分はいつか息子に殺されるのではないだろうかという怖れにとらわれ、物心つかない阿闍世を殺そうとします。ですが、自分の行為を思い直した王は、阿闍世を後継者として大事に育てます。何も知らぬまま阿闍世は青年になりますが、ある日、仏弟子のデーヴァダッタ(提婆達多)から自身の出生の秘密を聞いてしまうのです。阿闍世は怒り、自らの父と、父をかばう韋提希を幽閉します。その後、頻婆娑羅王は死に、韋提希は苦しみにとらわれます。

 

 頻婆娑羅王と韋提希が犯した罪は、業となって彼らに押し寄せました。その業の体現者となったのが阿闍世であり、その業はマガダ王国が背負う悲劇の起点となりました。結果、間接的とはいえ阿闍世は父親を死に追いやり、阿闍世自身も、後に自分の子どもに殺されたとも言われます。マガダ王国は、この後五代にわたり子が親を殺す構図が続きました。このような悲劇の中で、仏陀が、苦悩する韋提希にむけて説いたものが『観無量寿経』となるそうです。

 

『観無量寿経』では、瞑想法が説かれます。西に沈む太陽を見て、極楽浄土を思う修行〈日想観〉などはとても有名です。夕陽の先に異界を描き、大きい大きい物語に身を委ねる。自分の手に余る苦悩を、自分の手の及ばないものに預ける。マガダ王国の悲劇の終点は、もしかしたらそのような場面なのかもしれません。

 

 今回の講座では、阿闍世の持つ強い感情・コンプレックスにも注目しました。たとえば、フロイトが提唱した「父親と息子の対立構造から来るもの=エディプス・コンプレックス」に対して、精神分析学者の古澤平作は「”完璧な母”ではない母、への憎しみと愛着、母の許しに対する罪悪感などの複合心性(コンプレックス)=アジャセ・コンプレックス」を提示して、異議を唱えたそうです。

 

「王舎城の悲劇」の物語の世界に引き込まれ、ことばにできない感情にゆさぶられている中、釈先生が講座の最後に仰った言葉が染み入りました。

 

「出会ってしまったらその前には戻れないような、そんな力が物語にはある。自分の為に用意されたと思う物語に出会ったときに、人は救われるのではないでしょうか」