記:多谷ピノ
12月5日、練心庵にて、釈徹宗先生が最高顧問を務めるラジオ番組、「8時だヨ!神さま仏さま」の公開収録が行われました。
ご存じ、コミュニティラジオ局FMaiaiで、毎週水曜日夜8時から放送されている30分番組です。貴布禰(きふね)神社の江田宮司、 浄元寺の宏林住職、関西学院中学部の福島先生、のお三方とアシスタントの谷口雅美さん、さらに今回は釈先生も参加しての聞きごたえたっぷりの1時間でした。ラジオから伝わる楽しい雰囲気は、お顔を拝見しながらだとさらに倍増しました。ついつい前のめりに聞いてしまう臨場感といいましょうか。毎回、30分では短い!と思わせてくれる番組ですが、公開収録ではそれがさらにさらに増していて、あっという間に終わった印象です。聞いていて心からくつろげる番組だなあと改めて思いました。
江田宮司、宏林住職、福島先生、谷口さん、番組スタッフの牧野さん、若狭さん、本当にありがとうございました。
記:多谷ピノ
11月29日に練心庵にて「宗教的テーマの番組アーカイブを見て語るカフェ」、通称ReTaカフェが行われました。
今回見た映像は「NHKスペシャル臨死体験」と伊丹十三監督の映画「大病人」。臨死体験をはじめとする80年代アメリカニューエージムーブメントの釈先生の解説をお聞きしました。印象的だったのは、いわゆる「オカルト」や「臨死体験」が現代日本では「広く薄く」定着したとの言葉です。とても、腑に落ちました。なるほど、そうかもしれない……。いろんなシーンで目にする「薄まった」と思われる、あれやこれやを思い浮かべました。
一方、末期ガンが主人公の「大病人」の映像もなかなか衝撃的でした。延命治療である「スパゲティ症候群」を目の当たりに見せられるなど、主人公さながら、自らの「死」への向き合い方について考えさせらました。
現代日本を描くキーワードとして「終活」はもはや外せません。自らのエンディングをデザインするという、自己決定の延長のように思えるそれは、「現代社会の要請」でもあるという言葉に、まさに今「終活」にいそしむ親を持つ子供としては自らを鑑みることしきりでした。
「末期」「終活」「死後の世界」。簡単に結論の出ないキーワードばかりですが、そこから現代社会との付き合い方や、家族の関わり方を考えることはできそうだとしみじみ思いました。
記:多谷ピノ
10月18日に練心庵にて「宗教的テーマの番組アーカイブを見て語るカフェ」、通称ReTaカフェが行われました。
今回のテーマは、1994年に日本で起こった「イエスの方舟」事件です。
「イエスの方舟」事件とは、昭和53年(1978年)千石剛賢を責任者とする聖書勉強グループ、「イエスの方舟」のメンバー26名が姿を消したことに端を発した事件の総称です。
メンバーに独身の若い女性が多かったため、「千石ハーレム」などという事実と異なる表現がしばしばされました。実際は、千石剛賢以外の男性メンバーもおり、のちにメンバー自身から「夫婦間以外の性交渉はなかった」と証言されているように、ハーレム状態ではなかったようです。
今回のReTaカフェではまず、事件の10年後に制作されたビートたけし主演のTVドラマ、「イエスの方舟」の一場面を鑑賞しました。
短いシーンでしたが、千石剛賢とメンバーである若い女性たちの和やかな日常が描かれていました。彼女たちは千石剛賢を「おっちゃん」と呼び、献身的に世話を焼いていました。
続いて、1994年に放送されたドキュメンタリー番組、「驚き桃の木20世紀―イエスの方舟事件―」を47分ほど鑑賞。再現映像などを交えたこの番組はかなり詳しく当時を説明しており、釈先生がおっしゃった「これは日本初のメディアスクラムだと思います」という言葉が響きました。
私見ですが、「イエスの方舟」事件について深く印象に残ったのは、当時も、現代のように生きづらさを感じ、居場所がないと思っている人たちがいるというある意味当たり前のことでした。
そんな居場所のない彼ら彼女らにとって「イエスの方舟」は、自らの価値観を信仰に定めることによって救われる場所だったと思います。しかし、それは彼女らの家族を含め、当時の社会からすれば理解されない価値観だった。
宗教とは社会と違う枠組みを提示するものですが、それを踏まえてもなお、居場所というもの、家族というもの、信仰というもの、を自分自身でとらえなおしていきたいという思いが今回のReTaカフェの後、強く残りました。
それぞれの受け止め方を、お茶を飲みながら交換できるのがReTaカフェの魅力だと思います。どうぞ皆様、思い思いのカフェタイムを過ごしに来てください。
釈先生によれば次回(11月29日)は「80年代のニューエイジ」だそうで、これもまた楽しみです!
受講された永山富美子さんがfacebookにてレポートをあげてくださったのでご紹介します。
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昨日は釈先生の練心庵で、第二回目の「初歩からの宗教学講座」がありました。(途中からでごめんなさい)
第二回目は「あなたも私も呪い、呪われている」というホラー。
ではなく、呪縛がいかに「無自覚」に身近にあるかという、ある意味ホラー映画よりこわい?お話。
ラベリング(名付ける)ことで、縛りをかけている。
例えば、「ぶつけたらダメだから、中古車買おう!」と言った自分の言葉を確かめるために、知らず知らずぶつけてしまっている…!Σ( ̄□ ̄;)
ピグマリオン効果ともいうのですね。
「言葉こそ呪い」
ひょー!
「あなたのためを思って言っているのよ✨」と言いながら、ほんとはめっちゃ怒っているのが、目線やしぐさに一瞬でてくる。
そんな「メッセージとメタメッセージ(裏にあるもの)」という「ダブルバインド」は、けっこうコミュニケーションによる縛りとして、あるあるですね。
でも、裏にあるものを感じなければ、気遣いもなく、社会生活に適応できませんよねぇ。
かといって、あまりにメッセージとメタメッセージが逆方向に向くと、
あらゆる言葉の裏に「何かあるかも?」と疑ったり、過度にこだわったり。
もう、メッセージいりません!って殻に閉じこもってしまうのは問題です!
じゃあどうしたらいいの?
まずは、そういう呪縛があると
「自覚」することが大事‼
呪術をあなどってはいけません(。>д<)
お互いに自覚的になればコミュニケーションを立て直せるし、「見抜く目」を持つことができる、これ大事。
そして、なんといっても
「近づかない!」
「呪術には呪術で、宗教には宗教で」という方法もあるようです。
「三年峠」という韓国の民話で、
三年峠で転んだら三年の命と言われているのに、転んじゃった〜もうダメだ〜というお爺さんに対して、「だったら10回転んだら30年寿命延びるやん♪」と言って転がす。というナイスな方法。とか
「私には自分の信仰があります。」と言う。←これ言ってもまだ勧誘してくる宗教は危ないってさすがにわかりますよね…。
これから、あれ?これもしかして縛られてる?
あれ?もしかしたら私、縛ろうとしてる?と、ふと釈先生を思い出して、呪術を認識できるのはかなりありがたいことです。
現実に起こっていることって、「認識とズレてくる」んだなぁ。
思い通りにならないとそこに苦しみが発生しますよね…。
これが「人類のテーマ」なんですって。
そして「認知的不協和」は「自我の危機」だから人は「自我防衛反応」によって自分を守っているようです。
・自分の想いを優先して
「現実否認」する。
・反対に自分の想いを押し込めて
「抑圧」する
・「酸っぱいぶどうだから採れなくてもよかった〜」とうまくリクツをつけて正当化しようとする「合理化」
・願望とは反対の行動にでて、好きな子にイタズラしちゃうような
「反動形成」
・人のせいにしたり、自分の荷物を人に背負わせて安全なところに逃げる(イジメなど)
「投影」
・欲求の対象を置き換えて、パチンコやネットに依存する
「代償」
・コンプレックスを別の価値で補おうと政治の世界で力を通そうとしてしまうような
「補償」
・赤ちゃんに戻ってピンチ切り抜けましゅ!という「退行」
わわわ!どれも「無意識」にやってるよー!
ある程度はストレスを避けるために必要だけど、ちょっとしたズレで逃げてたら、自分も現実も歪めて社会に適応できない人間になってしまう〜(´・ω・`)
じゃあどうしたらいいの?
「欲求不満耐性」を上げる。
即ち「タフな自我を形成する」ようにしたらいいんじゃないの?と高度経済成長期には盛んに言われてたけど、しんどい〜!
だったら「そのままでいいよ」「逃げてもいいんだよ」
「ありの〜ままの〜」自分でいいのよ〜ヨシヨシ(i_i)\(^_^)
?????
どっちも「自分」というものをベースにしてるところで同じやん!
そもそも「自分」ってあるの?
?????
そんなこと言ってられない!
だって成熟した現代は「自己決定」「自己表現」しないとダメでしょ?
はぁはぁ。しんどくなってきた(´д`|||)
そう。しんどくならないように
「自分」というものを見ていこう!
過剰にならないよう「自分を調えよう」
というのが宗教ではできるのではないか…
というのが、第二回目の講座でした。
もうもう、盛りだくさんで、
夕飯にムニエル作ろうと鮭の切り身買いに行ったら、新巻鮭一本もらった気分です。
新巻鮭もらったら、さばき方を知りたくなっちゃいます。
次回も絶対寺子屋ゼミ行きます!
!Σ( ̄□ ̄;)
もしかしてこれは、釈先生の「仏教をもっと知りたくな〜る〜」の呪術!?
こんな呪術にならしばらくかかっていたいな♪と思いながら、「宗教は人を救えるのか」を読みながら帰った秋の夜でした。
釈先生、そ〜ねのスタッフの皆さんありがとうございました!